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コラム

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琉球新報等で掲載された弊社社長今井のコラムです。

2009/7/27(月)東京沖縄文化通信にて弊社社長今井恒子が記事を掲載

琉球新報コラム「南風」に掲載された弊社社長今井の記事です。

2009/6/22(月)掲載 第12回 「チャンスの神様」

 昨年の暮れ、一本の電話がかかってきた。見慣れない番号に躊躇(ちゅうちょ)しながら受話器を握った。
すると、それは“チャンスの神様”からの電話であった。
用件をお聞きすると、琉球新報のコラム「南風」に半年間執筆するチャンスを与えてくださるとおっしゃった。
「あっ、予感が的中した!」驚きと興奮で頭の中がごちゃ混ぜになりながら「がんばります!」と即答した。

 嘘のような話だが、1年前「南風」コラムを読んでいたら、記事枠がふわりと宙に浮き上がってきた。
そのとき、「いつか、南風コラムを書くときがくる」と直感したのだ。
神人(カミンチュ)のようなサーダカイ(霊感が強い)生まれでもないが、ときどき直観力が働き、それが現実となるから不思議である。

 あれから半年、月に2回のコラムを担当させていただいた。
すらすらと小1時間で書きあげるときもあれば、何度も書いては捨てるを繰り返したときもあった。
記事掲載された新聞に顔を突っ伏し、自分の文才のなさにため息をついていたら、
「ヒットを出そうと思わなくていいんじゃない」。高校生の息子の言葉に励まされた。

あと一人、銀座で30年ジャズクラブを経営している沖縄出身女性、与古田夕雨子さんは、
毎回記事を読んだ翌日には必ず感想コメントと激励の電話を下さった。
半年間、“友を励まし続ける”温かい気持ちがうれしかった。
「チャンスの神様には前髪しかなく、すぐに手を伸ばし前髪をつかまえなければチャンスは逃げるのよ」。
昔、“チャンスの神様”の話をしてくれた人がいた。
いつも目の前を通る“チャンスの神様”。
それに気づき「これはチャンスだ」と思えるかどうかは自分次第である。

 「あらっ!」今、目の前を通り過ぎたのは“チャンスの神様”だったかしら。

琉球新報社HP 記事掲載ページ

2009/6/1(月)掲載 第11回 「人生舞台」

 「オギャー」と産声を上げてから半世紀が過ぎた。
年齢がかさむにつれ、時間に加速がつくと感じるのは私だけではないだろう。
ひとつの星が生まれては消えていくように、人もみな、この世に生まれ消えていく運命にある。
今更ながら「何のために生まれてきたのか」と、頬づえをつく。
どんな人にもそれぞれの人生舞台があり、主役を演じられるのも現在(いま)生きているからで、
すでにキャスティングされている親兄弟はもちろん、予想だにしない出演者はよほど深い縁があって自分の舞台に登場するのではないだろうか。

舞台枠外に存在する人の方がはるかに多く、それを鑑(かんが)みると自分の人生舞台に登場する「ウマの合わない人」、「憎らしい人」、「腹立たしい 人」、「自分の意に沿わない人」も何らかの意味があって登場するわけで、その人たちを通して自分が乗り切らなければならない課題があるのだと思う。
現在(いま)この時代に生きているからこそ出会えてる訳で、タイミングが合わなければ袖さえ触れずに通り過ぎるのである。

「偶然はなくすべて必然」だと思うと登場人物すべてが愛(いと)おしく思えてくる。
当たり前のことだが、生まれてくるときは裸、この世を去るときは自分の身体さえも置いていく。
ダイヤモンドやミンクの毛皮を身にまとい生まれて来る者はおらず、あの世に何百億の財産さえ持っていくことはできない。
だからといって、「虚無感」だけで生きるのは人生の答えにはならず、与えられた生命の輝きをどう放つか、人生舞台をどう演じきるかが、その答えの鍵になると思う。
一度きりの人生だからこそ、オリジナルあふれた素敵(すてき)な舞台をプロデュースしたいものだ。

琉球新報社HP 記事掲載ページ

2009/5/18(月)掲載 第10回 「石垣島のハーリー」

 旧暦5月4日は、海のお祭り「ハーリー」が行われる。
わが生まれ島、石垣島も島を挙げての大イベント「海神祭」に向け、海人たちがサバニに乗り込み競漕(きょうそう)練習を始め、応援部隊の漁業婦人部連は太鼓や踊りに励んでいる。
1年に一度、小さな漁港に大勢の見物客が押し寄せ、そのにぎわいに幼い子供たちも「肝(ちむ)どんどん」興奮した。
地元漁師やその家族はお祭りの準備に追われ、隣近所からお酒が届き、かまぼこ、ラフティー、ごぼうまき、食べきれないほどたくさんのごちそうが並んだ。

伝統的なハーリー服を身にまとい舟を漕(こ)ぐ勇壮な海人たち、鳴り響く太鼓の音や、パーランクーに負けじと「ありっ! ありっ!」声を張り上げ手招きしながら応援する海の女たち、勢いあまって海の中に転げおちた若者もいた。
熱狂的な応援やみなぎるエネルギーはまさに、命を懸け海で生きる者たちへのエールでもある。
港を出ると大海原で一枚の葉っぱに似たサバニに揺られ、突然のしけや嵐に見舞われたり、操業時のトラブルやアクシデントで命を落とすこともあり、一枚の板の上は天国、下は地獄である。
その中で海の恵みを受けて生きる海人たちにとって「ハーリー」はお祭りを超えた神聖な行事なのだ。
明治39年から100年以上も続く伝統ある石垣のハーリーだが開催できなかったのは戦時中の1、2回だけだという。
祭り前日までの悪天候も当日には良くなるというから“海の神様”のご加護はありがたいものである。

豊かな海を守り、この海のお祭り「ハーリー」が未来永劫(えいごう)続くことを心から願う。
今年は5月27日に県内各地でハーリーが行われる。
八重山のハーリー「石垣市爬竜船競漕大会」へおーりたぼーり。

琉球新報社HP 記事掲載ページ

2009/5/04(月)掲載 第9回 「言霊」

 「良い言葉は口に出して、悪い言葉は口に出さない方がいいよ~」
今は亡き祖母が神妙な顔をして教えてくれた。
その理由を尋ねると、言葉には「言霊(ことだま)」というものがあり、“悪い言葉”を発すると悪い方向に、“良い言葉”を発すると良い方向に進むからだと説明してくれた。
いつも太陽に向かって手を合わせていた祖母の姿が懐かしくよみがえる。

遠い記憶のかなたにしまい込んだその言葉を思い出したのは十数年前。
何の脈絡もなく「起業への思い」が心の底からわきあがり、その願いを込めて毎朝ベランダに立った。太陽に向かい言葉を発し手を合わせた。
その後まもなくして、起業をサポートする人たちと出会い、会社を立ち上げる夢は現実となった。

“自分が目指す方向に向かい自然と努力している”おかげで願いがかなったとも理解できるのだが、知人の体験では、「同僚が事故に遭えば良いのに」とふざけて言ったちょうどその時間帯に身内が交通事故に遭ったという。
そこには、理屈では通らない不思議な力を感じとることができる。
母からは汚い言葉を発したときに「口にく(食)ゎーりる」と諭され、とくに死を意味する縁起の悪い言葉を使うと「塩で口を清めなさい」とたしなめられた。
霊力や魂を持つ「言霊」がネガティブな言葉をキャッチし、“悪い言葉”は自分に還(かえ)ってくるのかもしれない。

言葉は文字と違い跡形もなく消えていくように思えるが、人の心に刻まれたり「言霊」として導かれていくようである。
「言霊」は、先人の知恵の賜物(たまもの)として「ネガティブよりはポジティブ」「マイナス思考よりはプラス思考」「悪口より褒め言葉」を、現代人に引き継いでいるのかもしれない。

琉球新報社HP 記事掲載ページ

2009/4/20(月)掲載 第8回 「目の輝き」

 先だって、東ティモールの子供たちにボランティア支援活動を続けている声楽家の宮良多鶴子さんから写真が届いた。
貧しくて学用品もなく、学校に行けない子供たちと一緒の写真で、その子供たちのきらきら光る目の輝き、笑顔が印象的であった。
昨年、「ブラジル沖縄移民100周年」に参加した際に、サンパウロ、リオデジャネイロで見かけたブラジルの子供たちの目も輝いていた。
ところが、日本の子供たちに目をやると東ティモールやブラジルの子供たちと同じ目の輝きや笑顔を見つけだすのは難しい。
携帯電話やゲームとの出会いが増え、目の輝くシチュエーションが変わってきたことや、また塾通いで忙しく、疲れた心身の影響で笑顔が消えたのかもしれない。
“物”はなくても自然の森や木から発するマイナスイオンを浴びて育つ子供たち、“物”があふれ電磁波を浴びて育つ子供たちは“生命のエネルギー”が明ら かに違うように思える。
いずれにしろ、先進国で物にあふれた日本より、物資に恵まれていない国の子供たちの方が幸せそうに見えるのである。

そもそも、日本人は農耕民族で自然を愛し、畑を耕し、地域社会を大切にしていた。
いつのころからか自然を破壊し、畑にビルを建て、地域社会を疎むようになった。沖縄も貴重なサンゴや干潟が失われている。
“心”より“物(金)”を求める“拝物(金)主義社会”に変貌(へんぼう)したのではないだろうか。

物や金を追い求めるだけでは、本当の幸せは手に入れることはできない。
子供たちの“目の輝き”を奪っているのは、そういう世の中を形成している大人たちにも責任があると思う。
“物”から“心”の時代へ、子供たちにきらきら光る目の輝きを取り戻してあげたい。

琉球新報社HP 記事掲載ページ

2009/4/6(月)掲載 第7回 「春風のごとく」

 3月、4月は卒業、入学シーズンである。
言い換えれば“別れと出会いの季節”であり、慣れた環境や親しい人たちと別れ、新たな環境、新しい人たちとの出会いの季節でもある。
高校を卒業したときは、親兄弟、島との別れがあり、短大に入学したときは、夢輝く学友たちとの出会いがあった。
社会人になってからは、仕事を通しての別れや出会いがあり、その比率は、“別れ”よりも“出会い”の方が多いような気がする。
その中で、2005年に発足した『関東沖縄IT協議会』の仲間たちとの出会いは、まさに「出会うべくして出会った」必然的なものであった。

当時、琉球新報夕刊の連載『沖縄マインド』に県出身起業家の一人として登場させていただいたのをきっかけに、関東在住のIT企業経営者や従事者との交流が始まり、出会いからわずか3カ月で『関東沖縄IT協議会』を立ち上げた。
会員間のビジネス交流・親睦(しんぼく)はもとより、郷土へのIT推進や雇用促進を目指しての当会は、「イチャリバチョーデー(出会えば兄弟)」の『沖縄マインド』の出会いでもあった。
不思議なもので、この“出会い”までは、沖縄関連行事に参加したこともなく沖縄県人会やWUBの存在さえ知らなかった。自分が“沖縄出身者”であることさえ忘れてしまっていたようだ。
その出会いから4年がたった。まだ短い期間ではあるが「沖縄」をキーワードに結集、郷土を愛すればこその“出会い”があるのを実感している。現在、当会の副会長を務めているおかげで多くの人との出会いがある。

人との出会いが増えれば増えるほど、肝に銘じていることがある。
「春風を以(も)って人に接し、秋霜を以(も)って自ら粛(つつ)しむ」。儒学者・佐藤一斎の語録の言葉である。

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2009/3/23(月)掲載 第6回 「沖縄オバァ認定証」

 石垣島を離れ上京してから30年が過ぎた。
中年と呼ばれる年齢に達したことの驚愕(きょうがく)はあるが、鏡に映る自分を見て「昔とそう変わっていない」と勝手に思い込んでいる。
これは、実年齢と精神年齢のギャップがどんどん広がっていく“思い込み”症状で、ある人に言わせると「沖縄のオバァ化現象」らしい。
その症状を挙げると、「思い込みが激しい」「人の話は聞かない」「ガハハと大声で笑う」「たくましい」「カメーカメー攻撃」「マイペース」「涙もろい」…などなど。

自慢じゃないが、人の話はよく聴くほうだし、思い込みは人並み程度だと思う。
だがしかし、隣のエレベーターまで轟(とどろ)く笑い声は事実だし、かよわい女ではなし、
おいしい物は誰にでも「食べて、食べて!」と勧めるし、自分が決めたことはマイペースでひたすら突き進む。

涙もろさは天下一品でオイオイと声をあげ鼻水を垂らしながら泣くこともある。
自分だけの判断で「沖縄オバァ認定証」は早計であると、周りの者の意見も聞 いてみることにした。すると、「沖縄オバァを承認する」と全員一致のお墨付き。
そういえば、小さいころから近所のオバァたちのユンタクを聞きながら育った。戦争で亡くした親兄弟のこと、物資が少なく日常生活が厳しかったこと、病院設備もなく子供が病死したこと、朝から晩まで働いたこと。

苦しいことや辛(つら)いことの重い話題にもかかわらず、時には大声で笑ったり時には涙をぬぐったり、オバァたちは明るく太陽のようであった。
歴史に翻 弄(ほんろう)された時代を生きたオバァたちだが、心の中にいつもハイビスカスのような明るい花を咲かせ、強くたくましく生き抜いてきたのだ。

このたび、ありがたく「沖縄オバァ認定証」を頂戴(ちょうだい)したいと思う。

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2009/3/14(土)掲載 第5回 「学校に行きたかった」

 朝起きると父が新聞を読んでいた。寝ぼけまなこの私に、新聞記事のニュースを1つ2つ話してくれる。
高校生まで過ごした石垣島で、海人(ウミンチュー)の父との語らいは、天候が悪く、海がしけている日が多かった。
幼い時に母親を亡くした父は、「家族のためにウミンチューとして働いてくれないか」と父親に頼まれウミンチューになった経緯と、
何度も「学校に行きたい」と懇願したが、その願いもむなしく、イチマンヤー(糸満漁師の網元)で海人見習いとして働きだした日のことを幾度となく話してくれた。

「アンマー(お母さん)が生きていたら、学校に行けたかもしれない」と、悲しくて悔してオイオイと声をあげて夜通し泣きあかしたそうだ。
当時は、「イチマンヤーに行く」というせりふは、「泣く子も黙る」言葉で、過酷な労働を強いられる糸満海人の“雇われ子”になるのは何よりも恐ろしいことであった。

実際、海で命を落とした子供たちがいたのも記録として残っている。
その父が、大人になってから、せめて新聞くらいは人並みに読みたいと、辞書を片手に新聞の記事をノートに書き写しながら漢字を覚えた。
漢字を覚えることでその意味を知ることができ、その意味を知ることで視野が広がり、学ぶことの大切さを実感したと言う。

カツオ漁船の船長を任されパラオ諸島に行った時、海外支援財団から依頼され漁法教授のためにトラック島に行った時には、時間つぶしに新聞を読むことが楽しみのひとつだったようだ。
現在、「学校に行きたくても行けなかった時代があったこと」を知っている子供たちは少ないと思う。
80歳近い父が、時折ポツリとつぶやくことがある。「学校に行きたかった」

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2009/2/23(月)掲載 第4回 「スーツケース」

 胸をはずませ、初の海外旅行に出掛けたのは20歳の時。
インターネットも携帯電話もない時代でした。
夏休みを利用して約1カ月間の語学留学先はイギリス(ロンドン)で、アメリカではなくイギリスを選んだのはヨーロッパへの憧(あこが)れと、イギリスの方が治安が良いと勝手に思い込んでいたからである。
1年間、昼はスーパーでレジ打ちアルバイト、夜は貿易会社でテレックスオペレータとして働き、旅費を貯めた。遊ぶ時間よりも、「海外に行きたい」という夢実現に向け毎日が充実していた。

いよいよ、イギリスに降り立ち、最寄り駅と住所を書いた紙きれを片手にホームステイ先に向かった。
ところが、乗換駅(ヴィクトリア駅)で行き先の違う列 車に乗ってしまったのだ。
辿(たど)り着いた場所は人気のないひっそりとした駅だった。あたりは日が暮れて心細く、異国の地に1人ポツンと取り残された孤 独感、不安感が募ってきた。

反対側の戻り列車に乗ろうと歩き出したら、黒人の男性が此方(こちら)を見ていた。
視線から逃れようと足早に駆けるとその男性が声を掛けてきたのだ。
何を言っているのか英語も聞き取れず、警戒心からスーツケースをぎゅっと手繰り寄せた。
すると、両手で大きなスーツケースを引きずる私に手を貸してくれたのだ。
目を大きく見開き、お礼を言うと白い歯でニコっと笑顔を返してくれた。
その時の ふっと力が抜けていく安堵(あんど)感はいまだに忘れられない。
それよりも、ほんの一瞬でも疑惑の念を抱いた自分が恥ずかしかった。

それから1カ月間は、バッキンガム宮殿近くの学校に通い楽しい時間を過ごした。
今でも大きなスーツケースを見るたびに、あの時の男性のことを懐かしく思い出す。

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2009/2/9(月)掲載 第3回 「カジマヤー(風車)を祝う」

 先月、カジマヤーを迎えた彫刻家の仲本潤英先生の誕生会に招かれた。
先生を囲む「刻石会」のメンバーを中心に「カジマヤー誕生会」が開催され安里副知事、翁長那覇市長も出席された。
ごく親しい身内の会だとお聞きしていたが、約50名が出席した。先生との出会いは3年前にさかのぼる。

関東沖縄経営者協会創設者でもある先生の講演をお聴きしたのがご縁で、那覇市にある先生宅(アートギャラリー)を訪問した。“人が大好き”で突然の来訪者を快く歓迎して下さった。
かつて、関東で60名の従業員を率いた創業社長としての経験や人生観を惜しみもなく語り、「逆境が人を成長させる」と含蓄のある言葉も頂戴(ちょうだい)した。現在、ラジオ番組にも出演するスーパー翁(おう)である。

また、ウイットに富んだユーモアの持ち主で、誕生会出席者へのお礼挨拶(あいさつ)では、「長生きはするものではありませんよ。歳をとると耳は補聴器、 目はメガネ、歯は借りもの、頭も記憶力が衰える。良いことはありませんよ」「だが、せっかくカジマヤーまで生きたので、100歳までがんばります」と仰 (おっ)しゃった。 会場が笑いの渦になると、真剣なまなざしでノーベル賞受賞者の江崎玲於奈博士との出会いのエピソードを披露し「皆さん、どうか人との出会いを大切にしてください」と締めくくった。
約一世紀を生きた人の言葉には深い味わい、重みがある。埼玉にある私の会社には、先生から寄贈された篆刻(てんこく)が飾ってある。

「大きな会社よりも良い会社に、良いくらしよりも楽しい暮らしを」

この短い言葉は経営者として、人として目指すものを示唆してくれた。そんな先生との出会いに感謝しつつ、「カジマヤー」を心よりお祝い申し上げたい。

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2009/1/26(月)掲載 第2回 「笑顔美人」

 私の周りには、笑顔の素敵(すてき)な人がたくさんいる。
数年前に一緒のプロジェクトで働いていたMさんもその中の1人である。彼女はIT企業に勤めるコンピューター技術者で、性格は陽気で明るく、とにかくよく笑う女性である。

その笑い声は社内フロアに響き渡り、職場が笑い声の粒子で広がりなんだか楽しい気分になったものだ。そのMさんと久しぶりの再会は昨年の夏だった。
いつも なら手を振り賑(にぎ)やかに近づいてくるはずなのだが、なんだか様子がおかしい。暗く沈んだ顔つきで表情が冴(さ)えない。笑顔が絶えなかったMさんと はまるで別人のようだ。

ある事がきっかけで職場同僚との人間関係がぎくしゃくし、そのストレスが原因でふさぎ込む日が続いていると言う。複雑に絡む人間関係に疲れきっている姿が痛々しい。
行き場のない沈殿物は心の光線をさえぎってしまい、明るい笑顔さえも奪ってしまった。

「この時代に生きる誰しもが何らかの悩みや問題を抱えているよ。ストレスを感じない人は、余程(よほど)おめでたい人か鈍感な人だと思う。そういう辛(つら)い時こそ、上を向いて笑わなくちゃ!」
自分の経験も踏まえ発したこの言葉は、彼女を元気づけたようである。別れ際には明るい笑顔、笑い声が再び戻っていた。

「笑い」には、NK(ナチュラルキラー)細胞の活性化でがん細胞を排除したり、ストレスを和らげたりする効能があり、作り笑いでも効能はあるらしい。
それでは、1日に1回の笑顔を心掛けようと鏡に向かいニコッと笑ってみた。すると、新たな笑いの効能を発見した。
「美人はますます美人に、そうでない人はそれなりの美人にしてくれる」。さあ、笑いの効能を信じ「オッホッホ!」と声を高らかに「笑顔美人」を目指そう。

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2009/1/05(月)掲載 第1回 「将来の夢」

 「お母さんの将来の夢は何?」
 今は高校生になった息子が中学1年生の時に唐突に尋ねた。
 日々の生活に追われていると将来の夢なんて考えたこともなく、ましてや40代も半ばを過ぎ、夢を語るより現実を語ることが多くなった。
「将来の夢ね~」思わず腕組みをした。
「ところで、あなたの夢は?」と問い 返すと「僕の夢はプロのサッカー選手になることなんだ」と、目を輝かせた。
「それで、お母さんの夢は何?」とさらなる問いに、「大会社の社長かな…」。
実現不可能と思いつつ咄嗟(とっさ)の思いつきで応えた。
妙に納得した顔で頷(うなず)き、「夢は持ち続けなければ駄目だよ。
あきらめたらそこで終わりだからね」と大人びたアドバイスをくれた。

いろんな夢を持っていたのに太刀打ち出来ない現実の前で木端微塵(みじん)に砕けたり、分不相応な夢に気づきあきらめたこともある。
世の中を知れば知るほど、現実社会の厳しさに直面し夢を持つことさえ忘れてしまう。
夢を持ち続けることはある種のパワーが必要なのだ。

何げなく問うたであろう息子の言葉は、自分を見つめ直す問いかけでもあった。
振り返ると、学生時代は海外留学する夢、大人になってからはIT会社を立ち上げる夢はかなった。
どんな夢でもすべては夢を持つところから始まるのだ。立ち去ろうとする息子に聞いた。
「女優になるって夢もあるけど、どうかしら?」 「あ~っ、それは無理、無理!」。
つれない返事を残し去って行った。
あれれ、夢を持ち続けなさいと言ったのは誰だったかしら。

さて、2009年「南風」のトップバッターとしてバトンを受け取りました。
半年間「夢」のあるコラムをお届け出来るよう精いっぱい努めてまいります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

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